2011年4月27日


 「両部マンダラ」


 もともとマンダラは、古代インドのバラモン教やヒンドゥー教の儀礼の中で、土壇を築いて様々な文様や神像を描き、そこに天上の神々を招いて供養し祈願するために使われました。1世紀ごろに仏像の制作が始まると、仏教は、これらの諸神崇拝の形式を取り入れ、5世紀初めには、かなり進んだ観仏法が説かれるようになります。またこの頃から形成されつつあった密教の中で、マンダラの萌芽ともいうべき三尊形式の画像法も描かれるようになりました。これらのマンダラが、その後に、『大日経』に説かれる胎蔵マンダラに発展していきます。
 胎蔵マンダラは7世紀中頃に成立した『大日経』において説かれました。一方、金剛界マンダラのもとになった『金剛頂経』は、少し遅れて7世紀後半に成立しました。現在の研究では、成立した地方も異なっているとの見方が有力であり、当時のインドでは、2つを同レベルに扱うことはありませんでした。これら2つの経典を相並べて「両部の大法」としたのは、空海の師である恵果和尚の時代からであったと考えられています。印相はそれぞれ胎蔵大日は「法界定印」で金剛界大日は「智拳印」を結んでいます。つまり、大日如来は2種類あるのです。
 日本でも、両経を相並べてそれらが同質の価値をもつとする、両部思想が基本になっています。しかも時代を経るに従い、胎蔵の理(客観的真理)に対して金剛界は智(主観的真理)を表し、両部を2つながらにしてなおかつ、同一の世界を異なった角度から表したものとみる「両部不二思想」へと発展していきました。
この2つのマンダラは一見して同じように見えますが、実はそれほど多くの共通点を持ちません。代わりに相違点は以下のものが挙げられます。 空海は、『大日経』と『金剛頂経』ともに4種マンダラが説かれていると述べていますが、『大日経』では4種マンダラの考え方はまだ成立しておらず、3種のマンダラが説かれているのみです。4種はそれぞれ、①大マンダラ、②三昧耶マンダラ、③法マンダラ、④羯磨マンダラでありますが、『大日経』に説かれるのは、その中の、①、②、③に相当する大マンダラと三昧耶形のマンダラ、種子マンダラのみで、羯磨マンダラについては説かれていない。

 また、インドにおけるマンダラの発達史の中でみられる、両部マンダラの相違点として、マンダラの方位の変化があげられます。胎蔵マンダラの本尊が西を向いているのに対して、金剛界マンダラの本尊は、本尊瑜伽という修法の発達により方位が180度変化し、東を向いているからです。この変化から、『大日経』では本尊に対して祈願をこらし、修法するという観念が強かったのに対して、『金剛頂経』では、マンダラの本尊と一体化して修法するという、観想の対象としての意義をもつようになったことがうかがえます。
『大日経』、『金剛頂経』ともに自己の心を深く観察することを重視するものですが、『大日経』の中の「如実知自心」を用いた修法を組織化したものが『金剛頂経』の中にみとめられる「五相成身観」です。金剛界マンダラは、灌頂儀礼において用いられる図絵マンダラとしてだけでなく、行者が深く瞑想することによって、心の中に出現せしめる観想のためのマンダラとしての意義も、強くもつものといえるでしょう。

*この記事は高野山大学大学院「マンダラの研究」のレポートを修正したものです。担当:乾仁志教授



2011年2月28日


 「大日如来」


 密教の尊格をシンボルのみであらわした三昧耶マンダラの中では、大日如来をあらわす記号は「仏塔」、つまりストゥーパが描かれます。三昧耶形には常に、その尊格にもっともふさわしいものが選ばれますが、大日如来のシンボルとして、ストゥーパが選ばれたのはなぜでしょう。
 
 ストゥーパは、本来は釈迦の涅槃をあらわすモニュメントとして建立されました。中には釈迦の遺骨である舎利が納められていると言われています。日本では、法隆寺や東寺の木造の五重塔などが有名ですが、ストゥーパの起源であるインドでは全く違った造形をしていて、盛り土によって出来た巨大な半球形をしています。
 釈迦の入滅後、仏舎利をめぐって近隣の部族の間で争いが起きました。そのときに仲介役を務めたバラモンによって、舎利は8つに分割され、ストゥーパが建てられました。その後、仏教を保護したとして知られるアショーカ王により、この8つのうち1つを残して7つが集められ、そこから再び8万4千もの数に分割され、その1粒1粒をそれぞれのストゥーパに納められたといわれています。
 8つのうちの1つである、アショーカ王が唯一手をつけなかった仏舎利塔は、インド神話に起源を持つ、蛇の形をしたナーガの王が守る塔でした。もともと舎利とは、骨ではなく「身体」という意味があります。ナーガは、釈迦が悟りを開くときに守護したことでも有名です。強い繁殖力をもつ蛇のイメージと結びついたナーガの守るストゥーパの中で、まるで生きているかのごとく、舎利は自然と増えていくと考えられていたため、アショーカ王は自ら手をつけることがなかったのでしょう。つまり、ナーガはいつも、無機物としての舎利ではなく、生きた身体としての舎利を守っていたのです。
 しかし、これほど多くの数に分けると、必然的に大きさはどんどん小さくなっていくはずですが、実際に舎利の形や大きさについて、言及している文献はほとんど見つかっていないそうです。あたかも、ストゥーパの内部で仏舎利は、形や大きさを変えずに増え続けることが当然であると信じられていたかのようです。仏陀の教えが、世界のすみずみまでひろがることを望む人々の想いと、仏陀の舎利が全世界へとひろがっていく様子が重ねあわされた結果でしょうか。ストゥーパにはこのような、生み出し、増え、ひろがっていくイメージがあるのです。
 
 ところで、密教経典の1つである『金剛頂経』は、真言八祖の1人である龍猛が、南インドにあったといわれる鉄製の仏塔「南天鉄塔」のなかで感得したといわれています。そのことを伝える絵画「南天大塔感得図」には、経典が実際に、四天王に囲まれて塔からあらわれる様が描かれています。『金剛頂経』とはもちろん、大日如来を中心とする経典のことですね。金剛界マンダラは、それを絵であらわしたものです。
 さて、仏教には、須弥山と呼ばれる世界一高い山を中心にしてひろがる宇宙観があります。須弥山の頂には神々の王である帝釈天が住んでおり、中腹では四天王が守っているという、あの須弥山のことです。金剛界マンダラは、正確にはこの須弥山頂の金剛頂摩尼宝峯楼閣に住む、金剛界大日如来を中心とした37尊で構成されています。金剛界大日如来と、3世10万に遍満する一切如来が、37尊に集約されているのです。
 
 大日如来のシンボルにストゥーパが選ばれたのは、このような大日如来を中心とする金剛界マンダラの世界のあり方や、世界の中央にそびえる須弥山を中心とした宇宙観が、ストゥーパの、内部で増え続け世界に遍満するというイメージやその造形に、ぴったりのシンボルとなりえたからでしょう。



2010年11月20日


 「文殊菩薩」


 インドにおける文殊菩薩のイメージは、堂々とした体躯で、右手は与願印を示し、左手には大地から伸びた睡蓮の茎をつかんでいる「伝統的な文殊」と、右手で剣を振り上げ、梵篋を携えた左手を胸の前に保ち、蓮華座に結跏趺坐で座る「密教系文殊」の2つのグループに大別することができます。
日本では、獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する宝剣を構え、左手には梵篋を乗せた睡蓮を持っているのが一般的ですが、「伝統的な文殊」にはアトリビュートとしての睡蓮と剣の組み合わせは登場しません。剣を振りかざすスタイルは「密教系の文殊」の一部にのみ登場します。

「伝統的文殊」固有の図像上の特徴は、その髪型と装身具にあります。髪を束ねて複数の髻を作る、大きな円形の耳飾りをつける、独特の首飾りをつける等は、パーラ朝期の文殊菩薩を比定するための指標となります。

日本では、髻の数にあわせて五髻文殊や八髻文殊と呼ばれたりしますが、中国では5という数字が重要になったため、山西省の

それぞれ、中峯の無垢文殊、西峯の弁舌獅子文殊、南峯の文殊智慧薩埵、北峯の無垢文殊、東峯の敏捷文殊という風に、五台山の5つの峯を5種類の文殊菩薩にあてはめて名づけられています。


 仏教に登場する仏、菩薩の中には、ヒンドゥー教の神々との深い相関関係があるものも多いといわれていますが、「伝統的な文殊」の独特の髪型と装身具は、ヒンドゥー教の聖典の1つである「マハーバーラタ」のなかの、火神アグニの子である少年神スカンダのイメージと、多くの共通点があります。

この頃のスカンダ少年は、左手に槍をもち孔雀にまたがった姿で表されますが、聖典の中では、6つの顔と12本の手足をもつ強大な力をもった勇者として登場します。

その後、シヴァ信仰が盛んになってくる北インドでは、スカンダはシヴァの息子で、ガネーシャの兄に当たるという出自が一般的になり、スカンダそのものに対する単独の信仰はほとんど見られなくなりました。一方南インドでは、スカンダに相当する少年神ムルガンが、現在にいたるまで絶大な信仰を集めています。

 この6面の特徴は文殊菩薩には見られませんが、「密教系の文殊」の脇侍に従えられる、ヤマーンタカ(大威徳明王)に現れます。インドの後期密教の時代になると、ヤマーンタカの忿怒の性格をさらにエスカレートさせた、9面34臂16足をもったヴァジュラバイラヴァが登場しますが、この9面の最上段の中央の面は、文殊菩薩の顔になっています。つまり、水牛の顔をしたこの尊格の出自は、頭頂にいただく文殊菩薩なのです。

このヴァジュラバイラヴァには、度し難い衆生であっても救済することのできる慈悲の方便により、文殊菩薩の仏国土へと導く力があると強調されています。 このように、智慧の仏様のイメージをもつ文殊菩薩の中にある、畏怖すべき尊格としての性格は、その忿怒形とされるヤマーンタカに集約されています。しかし、文殊菩薩自体に強大な加持力があることは、幾つかの大乗経典にも書かれています。


 ヒンドゥー教の少年神スカンダからイメージをくみ上げた文殊菩薩は、若者の持つ利発さや勇敢さ、また不安定な勇猛さや危うさという両義性を内在させ、進化する過程でその勇猛さの部分を忿怒形として分離させ、智慧の菩薩としてのイメージを強固にしたのです。



2010年10月1日


 「インド密教の仏たちⅡ ~イメージの共有・連鎖~」


 後期密教の時代に多く見られる忿怒尊と、ヒンドゥー教の3つの最高神の1人であるシヴァのもつイメージが、多くの要素を共有していることは、すでに様々な研究で明らかにされています。
これらの忿怒尊は「へールカ」という名でも呼ばれていますが、持物の金剛杵や、先端に髑髏のついた杖、髑髏盃などはシヴァの持物でもあります。片足をあげたポーズは、シヴァの「舞踏王」の姿を彷彿とさせます。 また、この時代の代表的な守護尊の1人である、大威徳明王(ヤマーンタカ)の第3手の右手の持物であるダルマ太鼓は、シヴァのアトリビュートとして広く知られていますし、明王の第6対目の左手に持った梵天の生首は、増長した梵天の首をシヴァが切り落としたことに由来します。
 さらに、ヒンドゥー教の神々はしばしば動物を乗り物とします。
座や乗り物としてのインドラの象、ヴィシュヌのガルダ鳥、シヴァの牡牛などは、単にその上に乗るものたちの優位を示すだけのものではありません。いずれもそれぞれの神の随伴者として、その神を助けたり、またその神本来の性格や出自を示すことも多くあります。
大威徳明王=ヤマーンタカは、ヒンドゥー教の死の王、ヤマに起源を持つ尊格であることは、同じ水牛を乗り物とすることでも示されています。

 インド土着の神々や崇拝様式を取り入れ、盛衰を繰り返していたヒンドゥー教を、一時期は上回る隆盛を見せた仏教ですが、その背景には、仏法を広めることにより、仏を王に置き換え、王権確立を目指す権力者の意図がうかがえます。


2世紀から3世紀にかけて多く作られた「ストゥーパ図」の中には、仏の代わりに王が配置されたものも幾つか見受けられますが、文殊菩薩や釈迦と深い関係のある獅子や白象も、インドにおいては王権と結びついた聖なる動物でした。
インド亜大陸をほぼ統一したといわれるアショーカ王も、仏教を守護した大王の1人であったと言われています。その王宮に建立されていた、4方を向いた4頭の獅子を柱頭に頂いた石柱は、インド統一のシンボルとして、1950年に「国章」とされました。この下部に書かれたモットーは「真実のみが勝利する」という意味ですが、これは、ウパニシャッドという仏教の経典から取られたものです。

 パーラ朝の衰退と共に、仏教もインドから姿を消します。同じインドという地で、仏や乗り物に至る様々なイメージの共有と連鎖を繰り返した密教の仏たちとヒンドゥー教の神々には、深い相関関係があると言えるでしょう。

*インド密教の仏たちⅠ、Ⅱは、高野山大学院におけるインド密教美術のレポートを加筆、修正したものです。(担当=森雅秀教授)



2010年9月11日


 「インド密教の仏たちⅠ ~シンボルになった仏~」

 
 初期仏教の時代に、仏を偶像化する習慣がなかったインドでは、仏陀は仏足石やストゥーパなどによって表されました。
その後大乗仏教時代には、全宇宙は無数の仏国土で満ちあふれ、その一つ一つで仏が法を説いているという考えが主流になり、多様な性格と物語を持った仏たちが誕生します。
密教時代になると、これらの仏たちの外観の特徴や性質に、固有の印やその持物、座や乗り物などのシンボルを設定することによって、無数の仏が生まれました。
その仏たちは別々に存在するのではなく、相互に緊密な関係をもちながら「ほとけたちの世界」すなわちパンテオンを形づくるようになります。
 インド密教美術の特徴は、このパンテオンの中で仏がグループ化し、画一化したイメージを持った大量の仏が生まれた点にあると言えます。
このイメージの画一化は、個性の喪失と意味機能の低下をもたらす一方で、イメージの安定化ももたらしました。
仏像、仏画に描かれる、一見して同じように見える仏たちは、それらのシンボルにより辛うじてその違いを見出すことが出来ます。これらはアトリビュートとして、密教がインドから他の地域に伝播するときにも、経典や儀軌によって保持され、その尊を比定する重要な根拠となることも多くあります。このため、遠く離れたインドと日本で、きわめてよく似た持物を同じ尊格が有していることも珍しくありません。


 インド密教美術を代表する時代に、パーラ朝があります。
世界最大の仏教大学といわれる「ナーランダー僧院」が建立されたのもこの時代です。
初期の仏教の時代に仏伝図が主だった仏像群は、次第に象徴的なものへと変化を遂げ、パーラ朝の時代には、礼拝を目的とした、左右の対象性、装飾性を帯びた尊像彫刻が大半を占めるようになります。これには、聖なるものは写実的な形をとることを拒むというインドにおける象徴表現の伝統が、その背景にあると考えられます。
またインド人の好みに合わせ、無気味な外観や不完全なイメージのものも排除され、技術的に制作可能なもののみ具現化されました。

 さらに、シンボル化されていった背景として、マンダラ儀礼の導入が挙げられます。マンダラ儀礼により行者は、宇宙と自分との対応関係を明瞭に把握し、自分自身を浄化します。全ての浄化を終えると、仏陀の身、口、意を獲得し仏になるのです。それゆえに、機能の点からマンダラは、単なる仏国土の情景図ではなく、人を仏へと導く装置としての役割が必要になったのです。
増えすぎた仏たちをマンダラという図式の中に秩序立てて収めたようにも見えますが、マンダラの四方四仏のシンメトリー構造が仏を要請し、仏の数を無数に増やしていったと考えられます。降三世三昧耶会においては、仏すらも描かれずシンボルのみで現されていますが、各尊固有のシンボルを設定したことにより、全体が没個性へと向かった結果でしょう。
マンダラに描かれているのは、特定の説話や物語とは無縁な無機質な仏の世界なのです。



2010年6月12日

 「ブータンⅡ」

 前回、「国民総幸福」という言葉についてふれましたが、実際に、経済発展と人々の幸福感というのはバランスが難しいですね。 ブータンの国王様と、何度かお話をする機会を持たれた、今枝由郎(Imaeda Yoshiro)さんという人がいます。1981年から1990年まで、ブータンの国立図書館顧問を務められた方で、今はフランスの科学研究所(CNRS)のディレクターをされています。 2004年の7月に面謁したとき、国王様は以下のようにおっしゃったそうです。

 「国として、経済基盤は必須であり、ブータンも当然経済発展は心がけている。しかし仏教国としては、経済発展が究極目的ではないことは、経済基盤が必須であることと同様、自明のことである。仏教国の究極目的として掲げたもの、それがGNH「国民総幸福」である。しかし今考えると、「幸福(happiness)というのは非常に主観的なもので、個人差がある。だからそれは、政府の方針とはなりえない。私が意図したことは、むしろ「充足(contentedness)である。それは、ある目的に向かって努力するとき、そしてそれが達成されたときに、誰もが感じることである。この充足感をもてることが、人間にとってもっともたいせつなことである。私が目標としていることは、ブータン国民一人一人が、ブータン人として生きることを誇りに思い、自分の人生に充足感を持つことである。」 (今枝由郎さんいわく)、仏教国の国家元首としての、確たる「国民総充足」論である。 (今枝由郎著「ブータン仏教からみた日本仏教」より)

*この4月にブータンの首相が来日された折に、GNHに関するお話があったようです。
首相の日本記者クラブにおける会見のもようは、下記アドレスでご覧になれます。

http://www.youtube.com/user/jnpc#p/u/7/yROdzdIYBfU

 

 

2010年5月23日

 「ブータンⅠ」

  ブータンは、ヒマラヤ山脈のふもとにある仏教を国教とする王国です。
面積は九州よりちょっと大きいくらい、人口は約70万人の小さな国です。
1970年代まで鎖国していて、今でも個人の自由旅行は許されていません。
ヒマラヤの雪解け水による水力発電で、電力の99%をまかなっているそうです。

 王国なので、国王様がいらっしゃいます。
国王様が、国民に心がけるよう促している仏教理念があります。
第一に人に楽をあたえる慈無量心
第二に人の苦しみを無くす悲無量心
第三に人の喜びを自分の喜びとして喜ぶ喜無量心
最後に恨みを捨てる捨無量心
この四つの無限の心、「四無量心」が必要であると教えています。

 また、ブータンにはユニークな政策があります。 前の国王様(ジグメ.センゲ.ワンチュック)が掲げた「国民総幸福」ということばを耳にしたことがある人もいるかもしれません。
ブータンでは、「国民総生産」(GDP=Gross Domestic Product)つまり、経済発展が国の究極目的なのではなく、仏教理念に基づいた、国策としての「国民総幸福」(GNH=Gross National Happiness)を目指しています。


 

初めてブータンを訪れたのは約10年前でしたが、ネパールから空路でパロ空港に降り立ったとき、あまりに澄んだ空気にひやっとしたのを覚えています。 小型のバンに乗り込んで、ブータン中を約8日間 かけて巡る旅のあいだ中、目の前に広がっていた、まるで日本の田舎に似た田園風景と山林を思い出します。その山道とあぜ道を、地元の人々は歩いて移動していました。舗装されていないため、相当なでこぼこ道で、ある時大きなコブに乗り上げたバンが、ジャンプした拍子に座席が車体から外れて私に覆いかぶさってきました。トイレ休憩できるところがほとんどなく、個人宅にお邪魔してお借りするか、青空トイレも何度かありました。このような暮らしを不自由と感じるかどうかは人それぞれですが、今後、世界の流れに乗ってこの国も、物質的な豊かさも求めて発展してゆくでしょう。その中で、国民の「幸福度」とのバランスの取り様に、興味があつまるところですね。